アベルの「弟」は、「カイン」
カインの「兄」は、「アベル」
――― そう決まっている。ずっと前から。そう、決まっている…。
それは、最初の過ちが始まった時からずっと……。
淡い色の花が咲いている。丘は花に埋もれるようにあった。
ひとつの大きなお屋敷が、ぽつんと立っている。
見渡す限り何もない、広々とした大地。遠くまで見渡せるが、目に映るのは緑の海ばかりだ。
風の通り道となる草原は揺れ、花々が可憐な香りを醸し出す。
ここは、永遠の楽園だ。
季節はいつも春先のような、初夏のような、どこか不安定で人好みのする暖かさを保っている。心地好い朝と夜は、代わる代わる繰り返し、いつしか人をまどろませる。
どこか、切り取られたように穏やかな昼下がりは、いつも不自然。誰かの夢を見る。ちぐはぐに動く時計のような奇妙さ。不思議と落ち着かない。
ある日、突然、役目を終えたことを思い出し、崩れゆく皿のように、物はくしゃりと歪み、自ら壊れゆく…。自らを否定するように。自らを放棄しだす。
狂ったように甘い香りがしたら……”彼”が目覚めた合図。
季節を忘れ、主を忘れ、冬さえ忘れた赤いあの花は、まるで他を牽制するかのように勢いよく咲き乱れ。大きく誇らしく開いた花は、客人を迎えるように、みな門を向いている。
どこか、遠くにある時計塔の鐘が、十三回鳴ったら、お茶の時間だ。
熱く香り高い紅茶には、甘い毒を一滴(ひとしずく)。
解けない魔法みたいに、この夢を永遠にさせて。抱きかかえて眠らせて?
沈み込み、小さく溶けてゆく角砂糖が、ゆるやかに終りの時を告げる。残り時間を伝える。
その前に。
くるくる揺れる花びらは、舞い上がり、またどこかへ消えてゆく…。目を楽しませ、でも、元あるべき場所へ戻る。
すべてが全部、決まりごとのようだ。
日々は少しの変化を伴って、いつもと同じように過ぎていった。
変化はいつも、予測の範囲内でしか起こらないことを、誰もが知っていた。
大好きだったあの子の面影思い出させるキャンディは、いらない記憶。
久しぶりに目にしたそれを、思わず手に取ってしまった。代金を払い、口に入れて転がす。
舌にひどく絡むそれは、子供じみた甘ったるさで喉まで圧迫する。甘すぎて、苦虫を噛み潰したような顔になった。ガラスに映った自分の顔は、久しぶりにする表情に、引き攣って見えた。―――
昔の思い出とは裏腹に、過ぎた時は、あの頃のように輝かない。美味しかったキャンディも、甘すぎて嫌なものに変質した。思っていた以上に嫌になる。昔を美化しすぎている自分に気付き、嫌になる。
帰りたいとは思わない子ども時代に、騙された気分だ。
カードをめくるように、日々は簡単に過ぎていく。とても早く、とても素っ気なく。
いつまで経っても、あの、懐かしい日の”前日”から進めない。
”運命の日”を目前に控えた、最後の幸せの日。毎日、あの日が明日来ると思い眠る。焦りが胸の下に……心臓の辺りに潜んでいて、密かに中から焼きつける。じりじり、じりじりと、追い詰めるように…。
まるで胸を、締め付けられるように…。(罪悪感?)
まるで誰かに、責めたてられるように…。(君の非難?)
安全な場所は消え、目の奥に危険を知らせる赤が瞬いたら、もうすぐ終りの合図だ。
いっそ誰かに、理不尽にでも、強く怒りをぶつけられたならば……。落ち着く我が身を思って、ぶつけられたいと強く願う。
それとも、どうにかなってしまいそうだと、弱音を吐き、頭が変になりそうだと逃げ出してしまおうか?
責め立てられ、悪いのは己だと思い込むことで、この恐ろしい苦痛から解放されたがっている……。
優しい風が頬を撫でる。
優しいしぐさで、彼が僕に触れる。
穏やかな午後に、僕は眠くなる。
穏やかな顔で、彼は僕を見る。
僕は、ついうとうとしてしまったようだ。
彼は、羽のように軽く僕に触れる。
心地好い睡魔は、いつもすぐそこに潜んでいた。
心地好い手触りに、僕は安らいで目を閉じる。
かすかな風に、カーテンが揺らめき誘う。
かすかな吐息に、僕は揺らめき惑う…。
花が、甘く、香る…。
彼が、優しく、微笑する…。
どこまでも、どこまでも。永遠に続く楽園の風景そのままに。
世界はそこで止まった。
二度と動かない、これ以上進まないままで。
世界はそこで終わった。
幸せだけを閉じ込めたエゴの世界は、いつもと変わらず、僕にだけ優しい楽園を形どる
―――…。
この、まどろみに。一生つかまっていたい……。
「カイン」は「アベル」に手をかける前、嵐の前の静けさのように、酷く穏やかな数日を過ごした。
拾いお屋敷は、でも使われる居間だけ暖かさで満ちていた。そこでは、何もかもが、優しく暖かく在った。カインの眼差しも、アベルの気遣いも、外の日差しでさえも。
それは、夢のようだった。そして、どこまでも嘘のような……あまりにも優しすぎる日々だった。
でも、そこには確かに確信があった。
カインはアベルを憎んでいる。神に一人だけ愛されるアベルを。カインは今度は自分が愛されるために、そのためだけに、アベルを亡き者にしようと決めていることを。アベルは知っていた。カインはそんなこと、気にすることもなく、ただ、規則を守るように、穏やかに振舞った。
誰かが願った。
嫌だ! このままじゃ嫌だ…!!
神は気まぐれに”誰か”の願いを叶え、楽園は「カイン」が「アベル」を手にかける直前で止まる。そして、誰かの仕組んだ舞台のように、安らかな『直前の数日』を繰り返す。「アベル」は毎回、死ぬ間際で、楽園が巻き返るのを知っている。諦めに似た笑みは、ただ、ただ、儚く見えた……。
「…今から君が「アベル」で、僕が「カイン」をやろうか。…役目を取り替えるんだよ。いい考えだろう?」
アベルは、消えそうになる表情を、必死に保ったまま、平然とそう言い放った。握り締めた手が、アベルの迷いを握り潰すかのごとく、強く強く拳に力を入れて。
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