■ 姫といういきもの ■ 01


 乱世の姫は、姫と言えど、穏やかではいられない。
 その身にはいつ何が起こってもいいようにと、静かに確かにひとつの金の短剣を隠し持っている。
 恥ずなく自害できるように。
 もしくは、剛胆であれば、敵を切りつけるために…。
 利用され易く、か弱い存在である姫君は、決して自害を躊躇わぬよう、誇り高く育てられる。
 そして、姫君たちは、婚礼というひとつの運命によってその先が如何様にも弄ばれる。
 自分の人生さえ他者に決められてしまう儚き存在。
 ”婚礼”。
 それは運命の橋渡し。
 生きるか死ぬかが決まってしまう。
 幼い頃から多く語って聞かされた、数多くの運命に弄ばれた姫君の不憫な様がいつも付きまとう…。



「近づかないで!! こちらに来たら…飛び降ります!!」

 一体何がどうなって、こういう状況になったのか。
 ロサ皇子には全くわからなかった。
 代わりに少しばかり頭痛がした。
 風の強い、高いレンガの塔。
 大きく開いたロマンティックなバルコニーで、ほんの三月前嫁いできたばかりの、和平条約を結ぶために嫁いできた対立国の姫が、金に光る短剣を自らの喉元に突きつけ、こちらを毅然と見ていた。
「姫!! 馬鹿なことはお止め下さい! さあ、こちらへ…!!」
 大人しそうな姫君が、突然、こんな暴挙に出るなど、まったく想像がつかなかった。
 理由も不明である。
 釈然としない思考を抱えながらも、ロサ皇子は、あまり焦らない自分の心に嫌気が差していた。
 そして、そんなことに気付かせるこの姫に対しても。
「いっ…嫌です…っ!! どうか、どうか近づかないで下さいまし…」
 お願いします…と消え入りそうな声で懇願する。
 脅迫しながら懇願とは、あまりの馬鹿馬鹿しさに頬が引きつる。笑えそうだ。
 澄んだ瞳は、どこか虚ろでどこか必死だった。
 姫君がこんなに必死に、こんな強硬手段を用いるのは、何故だろう…?
 例えば、見ず知らずの、敵である得体の知らない男の近くで生活するのが嫌だから?
 手厚く監視されているから?
 見えない敵意をぶつけられている?
 精神的に参っているから?
 それとも、そんな男に触れられ子供を孕むのが嫌…?
 考えつくのはそれくらいで、でもそんな「当たり前で些細なこと」ではないのが、その取り乱しようからわかる。
 だいたい王族の結婚に恋愛感情は伴わない。
 床を共にするのも仕事。
 義務のひとつとして育て上げられる。
 愛情など初めから期待しない。
 関係ないものだ。完全な割り切りであり、子どもを産むという大仕事が姫の存在意義であると言っても差し支えない。
 しかし、姫にはそんなことに対する嫌悪など頭にないように思えた。
 もっと違う…でも私にはわからない何か…。
 そんな気がした。
 だって、”敵”である私を前にして、瞳があんなにも静かだ…。それに自分は、年頃の娘から嫌悪されるような振る舞いはしていない。容姿だって、十分紳士的なはずだ。

「…姫? 戦いは終わるのですよ? 我々の婚礼を持って。和解です! お判りでしょう…?」

 姫君に我々の存在の重要性を思い出させる。
 何を懸念しているのか知らないが、もしここで姫君が死ぬなどという不祥事が起こってしまえば、まとりかけた和平も白紙に戻されるだろう。いや、それどころじゃない。さらに激しい激戦の日々に逆戻りだ。
 そして、それはどんどん性質の悪いものに成り下がり、憎しみが憎しみを呼び、争いが争いを呼び、どちらかの王族を皆殺しにするくらいの血で血を洗う、終りの見えない戦いへと繋がるかもしれない…。
 国民は大人も子どもも多大な傷を負った。身体の傷はいつしか消えるだろうが、幼いときに受けた、恐ろしい体験はそう簡単に乗り越えられるものじゃない。みんな、そんな状況にうんざりしていた。長く続きすぎた争いに、誰も彼もが辟易していた。なんでもいい。誰でもいい。もう戦争なんかしたくない。消耗していた。どうしようもなく。限界が見えていた。どこもかしこも破綻の一歩手前で辛うじて踏みとどまっている状態だった。
 ロサ皇子自身、そうであった。だから、和平のため、架け橋のため、顔も知らないスパイかもしれない罠かもしれない姫君との婚礼を一も二もなく承諾したのだ。どうでもよかった。この身体ひとつで、この嫌気の差す戦争が終われば。すべてが、どうでもいいことだ。
 百歩譲って、対立国へと単身(ではないが、そういって差し支えないほどの供と一緒に)送り込まれ、精神が不安定になっていたから起こした行動だと思ってもいい。何事もなければ、私は今見た姫の錯乱的な行動も見なかったことにしていい。だから…だから。

「姫の嫌がることは何も致しません。子どもなど、どうとでもなる。あなたはそんなこと考えなくてよろしいのですよ? ただ、この部屋にいて、和平が結ばれるのを待っているだけでいい…」

 これほどまでに、譲歩しているのに、姫君の表情は少しも動かない。必死で足を踏ん張っていて一歩もここから動くか、という気鋭を見せている。必死で、必死すぎて、手が震えている。指は力の入れ過ぎで白く強張っているようだ…。
 なにより私の言葉を聞いていない…。

「姫…!!」
「ぁっ! いやっ!! 近づかないでっ!!」
「何が不満なのです!? 全てあなたの言う通りいたしましょう!! それならどうです?」

 じりじり…嫌な焦燥が背後から少しずつ出現し始める。追い詰められる感覚に内臓が捩れる。
 だから嫌いなんだ。こんな面倒は。
 少しずつ壊れていく自分は、いつもふたつの世界の重みを背負っていた。未来の王として、この国と、貰い受けた姫の、現在の敵国の、戦争をなくすためにその重圧を背負わされていた。
 姫はわななく唇を必死に舐めて、言葉を紡ごうとしている。

「姫…? 今ならこの事は、私とあなたの二人だけしか知りません…。大事になる前に、賢明になることです。大丈夫。私はこのことを誰かに口外するつもりはありませんから…さあ、こちらに戻ってきて下さいますね…?」
「あ…。い、いいえ、駄目です…。駄目ですわ…」
「姫? 何が駄目なのです…?」
 手のかかる女子供は嫌になる。手間がかかってかかって仕方がない。こんなに優しい顔で声で甘い言葉を吐いても、嫌々と頭を振る。いつまでこんなぬるい顔を無理やり作らなくてはいけないのだろうか。
「わたくしは…わたくしは…、ただ苦しくて……」
 カタカタと音を立てるまでになった白い指が、何かの弾みで喉に刺さりそうで恐ろしい。
「い、いえ……いいえっ……。あっあのっ……そうっ!! イっ、イシュタルを…わたくしの従者を呼んで下さいましッ!! …お願い…します……」

 今更ながらに、恐ろしそうに自分の手を、短剣を見る姫。声は震えて、喉がからからなのか、掠れて悲愴だった。顔は蒼白で、どこまで血の気がなくなれば、あれほど紙のように白くなるのだろうか。
 後ろから(下から)吹く大振りな風が、彼女の長い髪を上へ上へとうねらせる。姫はそのまま軽く風に攫われてしまいそうだった。紙のように、なんの抵抗もなく。あっさりと飛ばされそうだ…。
「ええ、ええ!! 呼んで参りましょう…!! しかし、その前に姫がこちらに来て下さいませんと、恐ろしくて動くことなど出来ません…!! あなたは今にでも落ちてしまいそうだ…!!」
「えっ…?」
 今気付いたように、後ろを覗き込む姫。しかし、ふわりと不思議に笑うと、
「大丈夫ですわ…わたくしは落ちません。落ちませんわ」
 執拗に落ちないと繰り返した。その夢うつつの表情に、ロサ皇子はぞくりと寒気を感じた。さっきまでの危機感はなく、逆に彼女が風を操っている魔女のように見えた。儚いのではなく、今、ここに生きてない。そんな不審が身体を駆け巡った。
「ひ、姫…?」
「わたくしの心配は無用ですわ。ですから、早く……早くイシュタルを連れて来てくださいまし」
「ええ…今、ただ今呼んで参りますので……どうか、どうか、そのままに……」
 姫はやはり瞳を夢うつつに和ませて、うっとりと笑った。
「ええ…お願いしますわ……」
 その笑顔に、やはり、風を操っている、か弱い姫の振りをした性質の悪い(悪質な)魔女のように見えた…。
 姫の様子を見ながら、ロサ皇子はじりじりと後退する。姫は風に囲われて激しく揺さ振られているのに、姫自体の時間はふっと止まったかのようにピクリともしない。何故だか背中からぞわぞわと寒気がする。何故だろう…姫から離れて安全な城内に近づいているはずなのに…。今まで遠ざけてきた異国の姫の、女の、魔性のような二面性の奥深くを覗き見てしまったようで、……気持ち悪かった…。うっかり母親の横顔を思い出して、口に手を当てる。気持ち悪くて気持ち悪くて、吐きそうになる。普段泣くことなどないのに、生理的な涙が滲んで喉を絞り上げた。それは、久しぶりに屈辱の記憶を呼び起こした。



 ロサ皇子は戦乱の最中生まれた数多い王子のひとりだった。
 身内で起こる血みどろの王位継承争い。
 躍起になるのは、当の本人の周りばかり。
 何人もの兄弟が生まれ、闇に葬られてきた。
 ロサ皇子は運が良かったのか、物心つくぐらいには聡明さの片鱗を周りに認められるくらいに出来る子どもだった。
 妬みに嫉妬。
 渦巻く黒い視線にいつしか心は慣れ、何も感じないようになる。
 最もロサ皇子の成長に目を細めたのが第二王妃である母親だ。
 日々賢く育つ我が子に惜しみない愛を注ぐ。
 愛はいつしか呪いに変質していたが、それに気づかないまま時は過ぎ、ロサ皇子が十になった年だった。
 母の待望の第一王妃が”何者かに暗殺された”。
 一目見て機嫌の良い母に、ロサ皇子は静かな心に少しの波紋も感じなかった。
 少しずつ、狂っていたのだ。狂っていったのだ。
 第一王妃の生んだ、第一の王位継承者である兄皇子とは、仲が良かった。
 よく面倒を見てもらったし、一緒にいてその優しさと真摯さに知らず心が安らいだ。
 ………しかし、第一王妃が急死してのち、気づいたら第一皇子は行方不明となっていた。…誰がやったかなんてわかっている。分からない方がおかしい。…自分の母の行動なのだから。
 ロサ皇子は、女の、醜く執着する様に耐えられない自分をわかっていた。



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